5月23日の今井君は、午後3時にカドキョイからエミノミュの港に戻ってきた。セマーの舞台は19時からだから、4時間弱の空きがある。この時間を利用して「ピエール・ロティのチャイハーネ」を訪ねることにした。 まず諸君、ピエール・ロティから説明しなければならない。ピエール・ロティは、19世紀後半から20世紀にかけて活躍したフランス人作家。海軍士官として世界を回り、その体験を自伝的に書き残した。作家というか、旅行家というか、ヒマ人というか、なかなか定義の難しい御仁である。 彼の旅のやり方は、「その土地に溶け込んで、そこに住んでみる」というスタイル。2週間や3週間で帰ってくる今井君の旅のような、せかせか慌ただしい旅ではない。タヒチでも、イスタンブールでも、北アフリカでも、長期滞在して土地に溶け込む。旅行記は、自伝と私小説を合わせたようなものになる。(ピエール・ロティのチャイハーネから金角湾を望む) 日本にも2度来ている。鹿鳴館の舞踏会にも参加。踊る日本人について「異様につり上がった目、丸く平べったく小さい顔の人々」と酷評したことは有名。「テルマエ・ロマエ」の「平たい顔族」を、150年前に表現していたわけだ。じゃ、日本人なんか大キライなのかと思うと、意外や意外、長崎では日本人女性と同棲したりしている。 その時の体験を「お菊さん」というタイトルの文章にしたためた。今井君はどこかのフランス語購読の授業でこれを読まされて、たいそうムカついた記憶がある。「日本人女性と同棲した」と言っても、たった1ヶ月足らずのこと。彼が35歳、同棲相手の「おかねさん」は、わずか18歳。それって「ちょっと遊んだ」ってヤツじゃないの? 「土地に溶け込んでそこに住む」という旅のやり方には、そういう要素も多分に紛れこんじゃうのである。(金角湾を船で遡る。ヴェネツィアのヴァポレットと同じように、両岸の船着き場をジグザグにたどっていく) しかも「お菊さん」冒頭の一節に「何と醜く卑しく、また何とグロテスクな」という日本人評が顔を出す。「やっぱりキミはボクらがキライだったんだね」であるが、「蝶々夫人」の原作者である弁護士作家ロングが、マダムバタフライの着想を得たのはロティ「お菊さん」からだ、という説も有力だ。 だとすれば、たとえ日本人がキライだったにしても、プッチーニのアリア「ある晴れた日に」を通じて間接的に日本を世界に紹介してくれたヒト。やっぱり若干の感謝も捧げたほうがよさそうだ。 長崎・唐人屋敷から東山手方向に坂道を登っていくと、細い道の左脇に「ピエール・ロティ寓居の地」という記念碑が建っている。クマどんは2012年3月、長崎で講演会が3つ連続したときに、ザボンをぶら下げながら長崎を歩き回って、彼の記念碑を発見したばかりである。(チャイハーネから、金角湾の最奥部を望む) そのピエール・ロティがイスタンブールで入り浸ったカフェが、金角湾を見下ろす丘の上に残っている。ここはトルコだから、トルコ風に「ピエール・ロティのチャイハーネ」と呼ぶ。ヤギの角の形に深く切れ込んだ湾を船で遡って、湾の一番奥からロープウェイで5分ほど丘に上がったところである。 夕方の風に吹かれつつ、テラスから金角湾の風景を見渡すのは、確かに爽快な経験である。夕暮れが近づくにつれて、湾は次第に金色に輝き始める。こういう風景と光を風の中で旅の記憶をたどっていれば、おかねさんの思い出もいつのまにか「醜く卑しくグロテスク」なものから、何ともホノボノ暖かい思い出に変質していったことだろう。 ただし、チャイハーネもテラスも、いまや中国の人々の団体に占拠されて、とても落ち着いて美しい光景に浸ってなどいられない。ロープウェイもチャイハーネも中国語が渦巻き、ロープウェイ駅の下の広場には大型バスがズラリと並んで、お菊さんもおかねさんもタヒチ島の人々も、入り込む余地は残っていない。(エユップ→エミノミュの船の時刻表) 今井君としては、チャイハーネの麓の裏町のほうが、むしろ印象深い。「エユップ」という町である。偶然道を間違えて、町の奥まで入り込んでしまった。船を降りたら、ホントはそのまま真っ直ぐ山に向かっていかなければならないのに、今井君は左の道に折れ、完全に地元の人しか見当たらないエユップの、夕方の雑踏の真っただ中にいた。 美しい噴水の前のジャーミーで、まず葬列に出会った。ジャーミーの入り口が妙に物々しいと思ったら、親戚の男たち十数人に担がれた柩が姿を表した。さらに数十人の男たちが厳粛な表情で柩を取り囲み、柩は高く掲げられて進む。ジャーミーの脇が墓地になっていて、たくましい男たちは目を伏せたまま無言で柩を運び去った。(迷い込んだエユップの町の噴水) 葬列を見送ってまもなく、今度は新婚カップルと遭遇した。イスラムの結婚式風景を見るのは初めてであるが続きをみる
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