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Channel: 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba
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Wed 120725 ピエール・ロティのチャイハーネ セマーくるくる(イスタンブール紀行16)

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 5月23日の今井君は、午後3時にカドキョイからエミノミュの港に戻ってきた。セマーの舞台は19時からだから、4時間弱の空きがある。この時間を利用して「ピエール・ロティのチャイハーネ」を訪ねることにした。 まず諸君、ピエール・ロティから説明しなければならない。ピエール・ロティは、19世紀後半から20世紀にかけて活躍したフランス人作家。海軍士官として世界を回り、その体験を自伝的に書き残した。作家というか、旅行家というか、ヒマ人というか、なかなか定義の難しい御仁である。 彼の旅のやり方は、「その土地に溶け込んで、そこに住んでみる」というスタイル。2週間や3週間で帰ってくる今井君の旅のような、せかせか慌ただしい旅ではない。タヒチでも、イスタンブールでも、北アフリカでも、長期滞在して土地に溶け込む。旅行記は、自伝と私小説を合わせたようなものになる。(ピエール・ロティのチャイハーネから金角湾を望む) 日本にも2度来ている。鹿鳴館の舞踏会にも参加。踊る日本人について「異様につり上がった目、丸く平べったく小さい顔の人々」と酷評したことは有名。「テルマエ・ロマエ」の「平たい顔族」を、150年前に表現していたわけだ。じゃ、日本人なんか大キライなのかと思うと、意外や意外、長崎では日本人女性と同棲したりしている。 その時の体験を「お菊さん」というタイトルの文章にしたためた。今井君はどこかのフランス語購読の授業でこれを読まされて、たいそうムカついた記憶がある。「日本人女性と同棲した」と言っても、たった1ヶ月足らずのこと。彼が35歳、同棲相手の「おかねさん」は、わずか18歳。それって「ちょっと遊んだ」ってヤツじゃないの? 「土地に溶け込んでそこに住む」という旅のやり方には、そういう要素も多分に紛れこんじゃうのである。(金角湾を船で遡る。ヴェネツィアのヴァポレットと同じように、両岸の船着き場をジグザグにたどっていく) しかも「お菊さん」冒頭の一節に「何と醜く卑しく、また何とグロテスクな」という日本人評が顔を出す。「やっぱりキミはボクらがキライだったんだね」であるが、「蝶々夫人」の原作者である弁護士作家ロングが、マダムバタフライの着想を得たのはロティ「お菊さん」からだ、という説も有力だ。 だとすれば、たとえ日本人がキライだったにしても、プッチーニのアリア「ある晴れた日に」を通じて間接的に日本を世界に紹介してくれたヒト。やっぱり若干の感謝も捧げたほうがよさそうだ。 長崎・唐人屋敷から東山手方向に坂道を登っていくと、細い道の左脇に「ピエール・ロティ寓居の地」という記念碑が建っている。クマどんは2012年3月、長崎で講演会が3つ連続したときに、ザボンをぶら下げながら長崎を歩き回って、彼の記念碑を発見したばかりである。(チャイハーネから、金角湾の最奥部を望む) そのピエール・ロティがイスタンブールで入り浸ったカフェが、金角湾を見下ろす丘の上に残っている。ここはトルコだから、トルコ風に「ピエール・ロティのチャイハーネ」と呼ぶ。ヤギの角の形に深く切れ込んだ湾を船で遡って、湾の一番奥からロープウェイで5分ほど丘に上がったところである。 夕方の風に吹かれつつ、テラスから金角湾の風景を見渡すのは、確かに爽快な経験である。夕暮れが近づくにつれて、湾は次第に金色に輝き始める。こういう風景と光を風の中で旅の記憶をたどっていれば、おかねさんの思い出もいつのまにか「醜く卑しくグロテスク」なものから、何ともホノボノ暖かい思い出に変質していったことだろう。 ただし、チャイハーネもテラスも、いまや中国の人々の団体に占拠されて、とても落ち着いて美しい光景に浸ってなどいられない。ロープウェイもチャイハーネも中国語が渦巻き、ロープウェイ駅の下の広場には大型バスがズラリと並んで、お菊さんもおかねさんもタヒチ島の人々も、入り込む余地は残っていない。(エユップ→エミノミュの船の時刻表) 今井君としては、チャイハーネの麓の裏町のほうが、むしろ印象深い。「エユップ」という町である。偶然道を間違えて、町の奥まで入り込んでしまった。船を降りたら、ホントはそのまま真っ直ぐ山に向かっていかなければならないのに、今井君は左の道に折れ、完全に地元の人しか見当たらないエユップの、夕方の雑踏の真っただ中にいた。 美しい噴水の前のジャーミーで、まず葬列に出会った。ジャーミーの入り口が妙に物々しいと思ったら、親戚の男たち十数人に担がれた柩が姿を表した。さらに数十人の男たちが厳粛な表情で柩を取り囲み、柩は高く掲げられて進む。ジャーミーの脇が墓地になっていて、たくましい男たちは目を伏せたまま無言で柩を運び去った。(迷い込んだエユップの町の噴水) 葬列を見送ってまもなく、今度は新婚カップルと遭遇した。イスラムの結婚式風景を見るのは初めてであるが続きをみる

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Thu 120726 雷雨の1日 ハギアソフィア カリグラフィー(イスタンブール紀行17)

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 8月18日、東京は朝から凶悪な黒雲に覆われ、9時過ぎに最初の遠雷が轟いた。まもなく「雹じゃないか?」と思うほど大きな雨粒が屋根をたたき、雷鳴も次第に大きくなった。代々木上原では午前10時前に2回、すぐ間近で激しい落雷があった。 今井君は、その時ちょうど暢気に入浴中。仕事が一段落して時間がタップリある時には、朝2時間かけてヌルいお湯にじっくり浸かり、体調を整える。「体調を整える」の中には「風呂上がりのビア」も当然含まれていて、土曜日曜のオヤジが風呂上がりの後のビアに激しく絶叫するのは、人生のクライマックスに他ならない。(ハギアソフィア外観) 「そんなに長時間お風呂に入っていて、暇じゃありませんか?」と尋ねるのは、まだ人生のシロートなのである。分厚い文学全集をお風呂に持ち込んで、あふれる汗でタオル1枚ビショビショにしながら読みふければ、2時間ぐらいはあっという間に過ぎていく。 そもそも、何でもかんでも「速読だ」「速読だ」と、読書でさえスピード優先の世の中で、18世紀や19世紀の長大な小説に付き合っていられるのは、暢気なお風呂の中ぐらいのものである。 「急げ」「速く」と思うから、読書もついつい軽薄化して、読む前から結論の分かっているビジネス書やHow to物ばかりになり、それで「1週間で10冊読んだ」「1ヶ月で100冊読んだ」などと大威張りしているのは、あまりカッコいいものではない。(ハギアソフィア 1) クマ蔵どんは、窓を開け放って入浴するのが好きである。というか、窓を閉め切って2時間もアッタカ・オフロにつかってれいば、クマの肉体も精神もブヨブヨにゆだってしまうし、せっかくの文学書も湯気でヨレヨレになっていく。例え真夏の熱風であっても、湯気でモワモワの浴室に吹き込んでくれれば、十分「一陣の涼風」の名に値するのである。 10時、ドストエフスキーに熱中していた今井君は、すぐ間近で炸裂した雷鳴に一驚を喫した。稲妻と雷鳴が、ホンの一瞬の間もあけずに連続したのである。こりゃ危険でござるね。しぶしぶ窓を閉めて、今日はこれ以上の読書をあきらめた。(ハギアソフィア 2) 8月18日の予定は、午前と午後の野球観戦であった。午前は、熊本の済々黌を応援。午後は秋田商を応援。ともに勝ち目は薄いのだが、早稲田そっくりのユニフォームのこの両校をどうしても応援しなければ気が済まない事情については、この4~5日のブログですでに詳しく述べた。 そもそも、一昨日の予定では「8月18日は甲子園まで応援に行くかな?」だったのだ。大阪伊丹空港までの航空券は、往復で3万円程度。貯まったマイルを上手につかえば、現金0円で航空券はまかなえる。日帰りで2ゲーム観戦して、帰りに梅田あたりで一杯飲んでくるのも悪くないじゃないか。(ハギアソフィア 3) 予定を思いとどまったのは、「あの暑さじゃ、クマが煮えるな」「あの炎天下じゃ、クマの焼き肉ができちゃうな」という、きわめて常識的判断の結果である。 今井君が最後に甲子園で高校野球を見たのは、22歳の時。学部の友人4~5人で大阪と鹿児島を旅行して、その途中で甲子園に立ち寄った。すでに数百年前、室町時代の出来事だが、まだ若かったあの時でさえ、ホンの1時間かそこらで暑さに気を失いそうになった。(ハギアソフィア 2階に上がってみる) 結果から言えば、「行かなくてよかった」ということになるのかもしれない。大応援団の奮闘も空しく、済々黌は惜しくも敗退。午後3時前から甲子園を襲った雷雨のせいで、野球は3時間近く中断。秋田商の試合は泥んこの球場でのナイターになり、何となくひ弱な印象を残したまま、こちらもあえなく敗退ということになった。 試合終了は20時近かったから、もし甲子園に出かけていたら、帰りの飛行機には間に合わなかった。マイルで購入した航空券は「その便かぎり」であって、搭乗できなかったらせっかくのマイルも「なかったこと」にされてしまう。ま、常識的判断でよかったということでござるね。(ハギアソフィア キリストのモザイク) 5月24日、イスタンブールの今井君は、いよいよ最後に残った大物・ハギアソフィアを見学に出かけることにした。イスタンブールのmustsと言えば、①トプカプ宮殿 ②ブルーモスクことスルタンアフメット ③ボスフォラス・クルーズ ④グランバザールときて、⑤がハギアソフィアである。 これが京都なら、①金閣・銀閣 ②清水寺 ③嵐山・嵯峨野 ④祇園ときて、⑤が京都御所というところか。一応⑤ということにしたが、御所もハギアソフィアもmust中のmustであって、ここを見逃したら「いったい、何しに行ったの?」の謗りを免れな続きをみる

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Fri 120727 ユスキュダルかウスクダルか ハムディ (イスタンブール紀行18)

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 5月24日、ハギアソフィアを出た今井君は、エミノミュからお船に乗って、一路ウスキュダルの町を目指した。クリミア戦争当時、ナイチンゲールが活躍した舞台である。 発音は、ウスキュダルでもいいし、ユスキュダルでもいい。トルコ語のスペルでは、Üsküdar。ドイツ語の影響を色濃く残すトルコ語としては、ウムラウトのくっついた冒頭の「Ü」を、「ウ」とするか「ユ」とするか、たいへん難しいところである。 ただし物事の整合性という話からすれば、真ん中のküを「キュ」と表記している以上、Üも「ユ」とすべきなんじゃないか。冒頭のÜが「ウ」と表記されるなら、全体も当然「ウスクダル」。整合性を重視すれば、「ユスキュダル」か「ウスクダル」か、どちらかに統一すべきである。(カラキョイ方面からスレイマンジャーミーを望む) ところが、外国語のカタカナ表記というのはマコトに難しいものであって、ここにいろいろな例外事項がシャシャリ出てくる。学者先生が難しい顔をして「整合性」なんかを説いていると、話は次の一言でカンタンにひっくり返ってしまう。つまり「トルコ語のÜ(uウムラウト)は、語頭では「ウ」、語中では「ユ」の発音となる」こういう例外事項が発生すると、論理の整合性なんか関係なく、「ユスキュダル」でも「ウスクダル」でもなくて、「ウスキュダル」が正しいということになってしまう。(ウスキュダル「乙女の塔」近景) 諸君、だから、そういう面倒くさいことは全て学者先生に任せて、ここはウスキュダルの町を満喫すればいい。ウスクダルだろうとユスキュダルだろうとウスキュダルだろうと、町の人々の笑顔や叫び声には一つの違いもないのである。 一方、「外国語の専門家になったら、そういう議論に一生をかけなきゃならないのかも」と覚悟すべし。「ボクは英語が得意だから英語を専攻して、一生を英語研究に捧げます」などということになれば、20年の研究成果も「これは例外です」「だって○○語ではそうは言いません」というネイティブの一言で、輝かしい研究業績も根幹から覆されかねない。(ウスキュダル「乙女の塔」遠景) ボクチンなんかは秋田方言のネイティブ・スピーカーだから、秋田方言についてどんな立派な学者がどんな立派な発言をしても、その立派な発言を一撃のモトに撃破してしまう自信がある。「少なくとも秋田の現地人はそういうコトバはつかいませんね」とニヤニヤorニタニタすれば、それで全て終わりである。 そこでクマ蔵は大人しくシッポを巻いて、ユスキュダルだかウスクダルだかの町をほっつき回ることにする。モトモトどうでもいいことだ。この町は旧名「スクータリ」でもOK。Üsküdarのうち冒頭のÜは無視、途中のdはtの発音で済ませ、rのあとのiの音を加えて、Üsküdar→Skutariでも通じるのだ。要するに、訛ったか、訛らなかったか、その程度の違いなのである。(ウスキュダル「乙女の塔」を遥かに望むチャイハーネ) ただし今井君は「ウスキュダル」が好き。実は新宿南口にもう30年も前から「ウスキュダル」というトルコ料理屋があって、今井君はここをタクシーで通過するたびに、「おお、いつかはこの『ウスキュダル』でメシを食ってみたいものだ」と憧れ続けてきた。 そしてとうとう2012年、新宿「ウスキュダル」に入店してみるより先に、実際のイスタンブールのウスキュダルを訪ねてみることになった。諸君、熱い夢は、こうして必ず実現するものなのだ。(ウスキュダル カップルと青梅売り) ついでに白状すれば、今から25年前、クマ蔵は新宿の「ウスキュダル」に1度足を踏み入れてみたことがある。ところが、テーブルに案内されるどころか、声をかけられることもなく、戸口付近に立ったまま完全に無視され、トルコ人とおぼしき従業員たちが奥のほうでいつまでも談笑しているばかり。どうしようもなくなったクマ蔵は、「何事もなかった」というフリでコッソリ店から逃げ帰った。 普通の人なら、「あんな店、2度と行くもんか」と怒り心頭に発するところであるが、さすがクマ蔵は違う。憧れは、ますます高まっていく。いつか相手にしてもらいたい、世界3大料理として、時に日本料理を押しのけることさえあるトルコ料理を、いつか味わってみたいものだという思いは、この4半世紀ますます高まるばかりであった。(ウスキュダルの船着き場) ついでに、日本に帰国してから調べてみると、トルコのウスキュダルは、わが東京都渋谷区と友好都市協定を結んでいるとのこと。いやはや、知らないところで身近な街どうしが結びついているものである。ウスキュダル、恐るべしであるね。 ただし、エミノミ続きをみる

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Sat 120728 地下宮殿 再び小学生軍団 「絨毯屋にご用心」(イスタンブール紀行19)

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 5月25日朝、「これでもうイスタンブールの大物はすべて退治した」という安心感の中で、クマ蔵は「今日はどこへ行こうかな」と、番付表を広げてみた。イスタンブールの観光地のうち、大関・横綱クラスはすでに総ナメにしたのであって、ここから先は関脇・小結クラスや前頭上位との対戦。ぐっと気が楽になるとともに「お楽しみは、ここからだ」なのである。 そもそも、横綱から横綱へ、mustからmustへ、帰国してから「...に行かなかったなんて、おかしいよ。いったい何しに行ったの?」と難詰されることを恐れながら、仕方なしに超有名観光地をウロウロしているうちは、外国旅行の醍醐味は分からない。 旅の一番の楽しみは、小結や前頭クラスを相手にする日々にある。ガイドブックに大きく掲載されたmustな観光地を全部退治したあとは、「何だそりゃ?」「何でそんなところに行ったの?」「そんな場所をウロウロして、危なくないの?」と、目を丸くされるような場所を満喫する日々になる。(イスタンブール地下宮殿 1) そこで、イスタンブール滞在も第2週に入ったことだし、まずは関脇・小結クラスから1つ1つ退治にかかる。5月25日の午前は、関脇「地下宮殿」に決めた。 ブルーモスク/ハギアソフィア/トプカプ宮殿など、錚々たる横綱陣が集中するスルタンアフメット地区にあって、「未来の大関候補」と嘱望されながら、毎場所毎場所「終わってみれば9勝6敗」。関脇には定着したが、まだまだ大関と認めるには安定感に欠ける。そういう存在である。(イスタンブール地下宮殿 2) 今日の今井君って、何でそんなにお相撲にこだわるの? 別に、何か理由があってのことではないが、何しろ今井君はコドモの頃からお相撲を見させられて育った。すでに数百年お相撲を見続けているから、頭の中を整理するにはお相撲かプロ野球が一番。このオヤジ臭さは、まさに昭和レトログマでござるね。(イスタンブール地下宮殿 3) で、関脇「地下宮殿」である。写真でご覧に入れる通り、見た感じはホントに地下宮殿だが、実際は4世紀から6世紀に作られた地下貯水池。コンスタンティヌスだのユスティニアヌスだの、そういう時代の建造物である。 この水は、かつてはヴァレンス水道橋から引かれていた。ヴァレンス水道橋は、今回の旅の最終日かLast but oneの日に訪問する予定。写真はそれまでお預けにするが、参考までにスペイン・セゴビア大水道橋の写真でもいかが。ブログ内検索ですぐに写真が出てくるはずだ。もちろん単純にググっても、似たような写真はいくらでも出てくる。(トルコ地下鉄) 奥行きも予想外に広い。この広さは、やっぱり間違いなくホンモノである。関脇小結クラスには、5回に1回ぐらいの割合でパッチものやバッタものが混じり込むのだが、ガイドブックによれば縦140メートル、横70メートルの広さ、深さは7メートル。これほどの規模のバッタものをワザワザ建設するアホはいないだろう。 赤くライトアップされた宮殿内はヒンヤリとして、確かに地下貯水池だけのことはある。水はそれほど深くないが、魚もたくさん泳ぎ回っている。トプカプ宮殿付近に住んだトルコの人々の生活を支えた水である。もちろんスルタンどんも、後宮の女性や宦官たちも、この水に頼って生きていたわけだ。(地下宮殿の内部。おサカナもたくさん泳ぎ回っている) 地下宮殿の一番奥の暗闇に、巨大なメドゥーサの顔がある。地下の水の中に半ば埋もれたまま、誰にも発見されずに数世紀の間、こんな逆さまのままでいたというのだから、マコトに気の毒なことである。 この暗闇の中で、今井君はとうとうトルコ小学生軍団に追いつかれてしまった。宮殿に入ってまもなく、後方が異様に騒々しくなって、小学生軍団の来襲に気づいてはいた。100人ぐらいの集団である。こうなると、もうとてもメドゥーサどころではない。 何しろ地下貯水池だ。容赦なく大続きをみる

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Sun 120729 ヴォイテクとイマテク 城壁 チチェッキ・パサジ(イスタンブール紀行20)

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 今日は、忘れないうちに、どうしてもクマのヴォイテクのことを書いておかなければならない。諸君、今井君はテレビを見ながら久しぶりに号泣してしまった。NHKもなかなかいい番組やるじゃないか。「クマのヴォイテク」、知らないヒトは今すぐググってくれたまえ。 番組のタイトルは「戦争にいったクマ」。第2次世界大戦中、あるポーランド部隊と長期にわたって行動をともにしたクマがいたというのである。番組は、部隊の生き残りの人たちの証言を中心に構成される。中でも、インタビューの途中で感極まって泣き出してしまうオジーチャンの笑顔がたまらない。(5月25日、今日食べた豆料理 チチェッキ・パサジで) 部隊は戦争に翻弄されながら、ポーランド→イタリア→スコットランドと、ヨーロッパを時計回りに回っていく。ポーランド語の響きから言って、正確には「ヴォイテク」より「ヴォイツェク」なんじゃないかと思うが、みんなヴォイテクとルビをふっているんだから、やっぱりヴォイテクということにしておく。 クマのヴォイテクは、部隊の人々に可愛がられるうちに、荷物運びを手伝ったり、トラックの助手席に座って移動したり、イタリアの海岸で人々に混じって泳いだり、ついには2等兵として地位を認められたり、数年にわたってまさに奇想天外な旅を続ける。モンテ・カッシーノの戦いでの活躍は特に有名のようである。 部隊とともにスコットランドまで移動したところで、世界大戦は終戦となる。すると、2等兵ヴォイテクには行き場がなくなってしまう。最後にはエディンバラの動物園に預けられることになり、1963年、22歳で天国に旅立った。(5月25日、夕食はチチェッキ・パサジで。ヒマそうだ) ま、ここから先はNHK on demandでどうぞ。有名な実話らしいので、クマの仲間のクセして今まで知らなかったことを、今井君は深く恥じるの。と同時に、ヴォイテクが理解していたらしいというポーランド語を聞くためだけにでも、近い将来ポーランドを訪れたくなった。 動物園に入ってからも、ポーランド語が聞こえてくると、その方向に顔を向けて嬉しそうに手を振ったのだという。うーん、きっとポーランド語は、ショパンの音楽みたいな美しい響きなのに違いない。 ポーランドは2010年12月に旅する予定だったが、その直前の網膜剥離発症→緊急手術のせいで、やむなく中止にした経緯がある。では、2012年12月に行くか? それとも2013年4月? そのあたりのまだ予定がハッキリしていないが、ヴォイテクの後を追ってワルシャワやクラクフを訪ねるのも悪くない。(イェディクレ テオドシウスの城壁) 5月25日午後、イスタンブール滞在中の今井ヴォイテク(今日だけは今井君はヴォイテクのつもり。略して「イマテク」とする)の予定は、「テオドシウスの城壁」訪問である。 1453年、オスマントルコのメフメット2世軍を数が月にわたって悩ませた城壁は、今でもその跡が市内各所に残っている。これから訪ねるのはそのうち南西側、マルマラ海に最も近い地点である。(トルコ国鉄 近郊電車) シルケジ駅からトルコ国鉄の近郊電車に乗って30分ほど。考えてみれば、この2週間のイスタンブール滞在でトルコ国鉄に乗車したのはこの時だけである。長距離の移動は、電車よりオトビュス(auto busのトルコ読み)のほうが一般的なので、トルコ国内を旅行して電車利用というのは、近郊の旅に限られるようである。 電車は、異様なほどグラグラ揺れながら走っていく。進行方向左側がマルマラ海、右側はトプカプ宮殿やハギアソフィアの立ち並ぶ丘である。550年前、丘の側に東ローマ帝国が立てこもり、海にはトルコ海軍の軍艦がウヨウヨ浮かんでいた。 イマテクが向かう城壁のあたりでは、こちら側が東ローマ、城壁の向こう側がトルコ陸軍。5月29日の東ローマ崩壊に向かって、トルコ軍の猛攻が続いていた。ということは、城壁の向こうからは、朝も夕も真夜中を過ぎても、ジェッディン・デデンだのエストラゴン城だの、激しいトルコ軍楽が鳴り響いていたのだ。(イェディクレ駅) シルケジを離れると、線路の両側は治安の余りよくなさそうな一角に変わっていく。3階建ての「トルコ式木造家屋」が立ち並んでいる。どれもすっかり古びていて、屋根が壊れていたり、壁の木材が剥続きをみる

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Mon 120730 オスマントルコ軍楽を聴く コドモたちに喝采(イスタンブール紀行21)

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 5月26日。オスマントルコ陸軍の誇った軍楽の演奏を、今日はどうしても聴かなければならない。「今日はどうしても」とわざわざ念を入れるのは、ちょうど1週間前の5月19日、せっかく演奏会場の軍事博物館まで行ったのに、「今日は開催しません」の一言であえなく追い返される仕儀に至っていたからである。 演奏開始は15時だというのに、しっかり気合いの入ったクマ蔵はホテルを11時に出て、脇目もふらずにオスマンベイに向かった。オスマンベイは、問題の軍事博物館の所在地。今となってはたいへん懐かしいが、イスタンブール滞在2日目、まだオッカナビックリの状況で地下鉄オスマンベイ駅に降り立った。 ニャニャンゴ中尉と出会ったのも、あの日のことである。「ニャニャンゴ中尉」と言われて何のことか分からないヒトは、ぜひブログ内検索で「ニャニャンゴ中尉」を検索。最近の今井ブログでも出色のキャラクターネコとして、現在人気上昇中のヤツである。クマのヴォイテクに勝るとも劣らぬ活躍を見せた、素晴らしい軍人ネコと言っていい。(トルコ軍楽隊の演奏を聴きにいく) 今井君の宿泊するスイスホテルと、軍事博物館のあるオスマンベイの間には、深い谷が横たわっている。直線距離なら至近であるが、もし徒歩で行くとしたら、険しい坂のアップダウンに耐えなければならない。いつか書いたボッタクリタクシーが横行するのも、このキツいアップダウンのせいであるかもしれない。 そこでイスタンブール当局は、深い谷をはさんで向かい合う2つの地区を、大胆にもゴンドラで結んでしまった。日本のスキー場にある、例のごく普通のゴンドラである。 眼下に公園やデカいショッピングセンターを見ながら、向こうの丘に向かってゴンドラで空中散歩する。あまり人気はないようだが、土地に不慣れな観光客としてはたいへん便利。トルコのSuica=イスタンブールカードも使えて、たった5分で向こうの丘に着く。(こんなゴンドラが市内を結ぶ) しかしこうなると「時間をどうつぶすか」が問題になる。まだ軍楽の演奏開始まで3時間も残っている。1時間前には会場に入るとしても、観光地でも何でもないオスマンベイで2時間はキツい。東京でいえば、信濃町か飯田橋、五反田か代々木、そういう場所である。 しかしここが、「横綱大関より前頭力士に注目する」という今井君の極意の見せ所。日本人や中国人の団体ツアーが絶対に来ないこういう場所で、ショーウィンドウを覗き、よく分からん店に入ってピザとフルーツジュースを満喫。「へぇ、トルコの人って、ピザはこういう形だと思ってるんだ!!」などというのも、この種の町歩きでしか分からないことである。(オスマンベイでピザを試す) さて、15時。ついに演奏が始まった。コンサート会場みたいな「客席」は一切なくて、体育館の真ん中でやっている演奏を、それぞれ思い思いの場所から立って眺めるという形式である。 聴衆は観光客3割、地元の小中学生の見学が7割。立錐の余地もない超満員になった。階段にも中学生がズラリと並び、2階バルコニーにも小中学生が「たわわに実った」という感じ。演奏は30分以上続くから、コドモたちが何だか可哀想である。(スズナリの小中学生) 30名ほどの演奏者が、中心を向いて円陣を作る。全員オスマン時代の装束に身を包んで、手にはシンバル、様々な太鼓、様々な管楽器。みんな立派なヒゲを蓄えて、どの1名をとっても、間違いなく一騎当千のツワモノである。 中でも最も勇壮な顔つきなのが、円陣の一番向こう側に立った指揮者である。指揮棒は、一番下を右手でつかんで、ゆっくりと上下させるタイプのもの。彼が場内をジッと睨みつけると、その眼光の余りの強烈さに、観光客も小中学生も思わず静まり返ってしまう。(一番左が、指揮者どん) その瞬間をつかんで、低く、鋭く、「さあ行くぞ、総攻撃だ!!」という気合いを籠めて「ハイディー、ヤッガー」と演奏者一同に声をかける。ホントは「ヤッラー」だが、トルコ語の「ラ」は喉の奥を強く震わせるから、外国人にはどうしても「ハイディー、ヤッガー」と力強く聞こえる。 それを合図に、シンバル/太鼓/様々な笛が、一斉に演奏を始める。諸君、その一つ一つの音が、どれほど圧倒的で、どれほど力感的で、どれほど威圧的であるか、それは実際に聴いてもらうしかない。ホントはイスタンブールまで出かけて聴いてもらいたいのだが、もちろんCDで聴くことも出来る。(指揮者どん拡大図。左の人物でござるよ) 今井君はこの日に備えて、2011年夏にiTunesで「トルコの軍楽」を購入。20数回繰り返し聴いてからトルコを訪れた。演奏されるほとんどの曲が頭に染み込んでいるほどである。CDの正式名称は「The World Roots Music Library:トルコの軍楽 オスマントルコ軍楽隊」。諸君もぜひ購入して聴いてみたまえ。 「高くてそんなの全部は買えねーよ」という諸君は、1曲ずつ購入するもよし。「ジェッディン・デデン」続きをみる

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Tue 120731 映画を制作しませんか カドキョイ、運命の店(イスタンブール紀行22)

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 5月26日夕暮れ、オスマン軍楽にすっかり勇気づけられたクマ蔵は、イスタンブールのアジア側・カドキョイの街に攻撃を開始した。エミノミュ港にはすでに日没の気配が迫り、金色に輝くマルマラ海の向こうの丘に、巨大なハギアソフィアが黒々とそそり立っていた。 550年前、コンスタンティノープル陥落は5月29日。今日が26日だから、陥落は3日後である。西暦330年にローマ帝国首都と定められて1100年。その歴史がついに崩壊しようとする街の城壁の向こう側から、クマ蔵がたった今聴いてきたばかりのオスマン軍楽が、長く高く、不吉に響き渡っていたことだろう。 僧侶も兵士も、役人も商人も、女と子供たちも、最後の砦になるはずのハギアソフィアに立てこもって、絶望的な祈りを捧げる。身分や貧富の差を超えて捧げる祈りは、ハギアソフィアの暗闇のドームと壁に、何度も何度も反響しつづけたことだろう。諸君、今こそYouTubeの出番だ。「東方教会聖歌」「晩禱」「徹夜禱」などをクリックしてみたまえ。 その重々しい響きに、トルコ軍楽「ジェッディン・デデン」「エストラゴン城」を低い音量で重ねあわせてみれば、1453年5月26日のコンスタンティノープルを再現できるかもしれない。(マルマラ海の夕陽) 26日から29日に至る劇的な3日間を描く映画がないことが、クマ君は不思議でならない。たった3日でなくていい。5月19日からの10日間なら、なお一層ドラマティックだ。若い人々の奮闘を期待する。 何も欧米の映画会社に任せて、指をくわえている必要はないじゃないか。日本の若い諸君が、企画も脚本も撮影もみんな陣頭指揮をとって、壮大な歴史映画を制作したら、今井君なんかはホントにスンバラシイと思うのだ。 赤くライトアップされた地下宮殿の光景だって、映画にするなら十分効果があるはずだ。トルコ軍楽が響き渡り、城壁に向かって延々と放たれる大砲の重い響きも、地下宮殿を大きく揺るがしつづける。もう昼か夜か分からない。立てこもった人々の硬直した祈りの声だけがいつまでも反響する。ハリウッド映画お得意のシーンである。(夕暮れのイスタンブール 1) 一方のハギアソフィアでも、熱い祈りが続く。多くの人々がトルコ側に逃走したあとも、この街を守りたい一心でここに立てこもった熱狂的な信者たちである。彼ら彼女らの頭上から、灯明に照らされたキリストとマリアと大天使たちの瞳が光り、その表情はいっそう悲しげに変わっていく。 この映画なら、ハリウッド的なヒーローやヒロインは必要ないんじゃないか。もちろん、スルタンに強いられてやむなく戦うトルコ兵と、何よりもFreedomを優先し、自由な選択を経て死地に突き進むコンスタンティノープルの人々を対照させてもいい。主人公にFreedomを讃える演説でもさせれば、「アレクサンダー」「ブレイブハート」に匹敵するアメリカ人の大好きな映画に仕上がっていく。(夕暮れのイスタンブール 2) コンスタンティノープルをエルサレムに代えれば、7~8年前の「キングダム・オブ・ヘブン」とほぼ同じストーリー構成になる。追いつめられたエルサレム市民に向かって主演・オーランド・ブルームが大演説するシーンは、コンスタンティノープルを死守しようとするヒーロー的僧侶を創作すれば、そのままの台本で使えるほどだ。 もちろん、エルサレム攻略を目指すイスラムの英雄サラディンに該当する人物を、オスマン軍の中にも1名設定しなければならない。マコトに残念なことに、実際のオスマン軍の中には、欧米人に大人気のサラディン並みの大英雄は存在しなかったようである。そのことが、攻略後の大殺戮につながってしまった。(カドキョイ。トルコ語のみの世界がここから始まる) そういう妄想をしながら、エミノミュからカドキョイまで20分、夕陽が金色に輝く海をずっと眺めていた。カドキョイへはこれで2回目。ウスキュダルを合わせると、アジア側への小旅行はもう3回目になる。日本人旅行者としては、もう十分に中級者の域に達している。 カドキョイ埠頭前の大きな交差点をわたり、イスタンブール独特の雑踏を踏みわけ、あの店この店の誘惑を踏みこえ、ついに今井君は運命の店BALIKCIMにたどり着いた。「ネヴィザーデより、だいぶ歴史が浅いな」と感じさせる、清潔な居酒屋通りの一角である。(こんな店に入った) 断っておくが、たとえ今井君が「運命の店」と言ったって、「絶品の料理が目白押し」「隠れた名店を発見」「イスタンブールの新しいmust」などということは一切あり得ない。 HPもあるみたいだから、ググってみてもOK。ただし、諸君の口から「何だこりゃ?」「もっといい店に行けばいいじゃん」「何で、こんな店を『運命の店』だなんて言うの?」「おかしくない?」という、罵声に近い驚きの声が上がることは必定続きをみる

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Wed 120801 エディルネのこと オトガル またカドキョイ(イスタンブール紀行23)

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 5月27日、イスタンブール滞在もいよいよ終盤戦になった。今日を入れても残り3日しかない。「10日もいったい何をしてたんだ?」という自責の念は強いが、その分ますます残り3日を満喫しなければならない。 まず、どこまでも意地汚く、「まだ行ってないのは?」とガイドブックから何からゴシゴシ洗い出しをする。ところが、さすがのイスタンブールも滞在10日を超えると、横綱大関クラスはおろか、関脇も小結もほとんど残っていない。(マルマラ海 1) 今回の旅は、リスボンやマドリードやバルセロナの時と趣向を変えて、「近郊への小旅行」を控えてきた。滞在地から片道3~4時間の小旅行を繰り返すのが今井君のスタイル。ベルリンなら、ドレスデンやライプチヒへ。パリなら、ルーアンやアミアンやランスへ。そういう小旅行である。 ところが、今回はちょっとコワかったせいもあって、イスタンブールからちっとも動いていない。今あえて考えれば、エディルネへの小旅行が考えられる。イスタンブールからバスで2時間程度。朝早く出て、世界遺産のエディルネを3時間ぐらい歩き回って帰ってくる。なかなか楽しそうである。(マルマラ海 2) 「エディルネ」と書いても、その長い歴史はハッキリ分からないが、この街のもともとの名称は「ハドリアーノポリス」だ。ハドリアーノポリス→アドリアノープル→アドリアノーポリ→エディルネ。オスマントルコによる征服後、アドリアノーポリヘ、さらにトルコ語化が進んで「エディルネ」になったのは、近代以降のことである。 イスタンブールに旅立つ前日、今井君は渋谷パルコ劇場で「ハンドダウンキッチン」を観た。そのあと時間つぶしのつもりで映画館にはいり、「テルマエ・ロマエ」で爆笑。ローマ帝国屈指の賢帝ハドリアヌスも、21世紀極東の娯楽映画では、何のタメライもなく「暴君の代表者」にされてしまうのである。(マルマラ海 3) もしハドリアヌスがローマ市民に不人気だったとすれば、「皇帝のクセにほとんど首都ローマにいなかった」せいである。広大なローマ帝国で、その地方自治をコツコツ一カ所ずつ巡って確認しようとすれば、のんびり首都に留まってなんかいられない。黒海沿岸の町も、小アジアの町も、ブリタニアやゲルマニアやイスパニアの町も、くまなく訪問しなければならない。 「日々旅にして、旅を住処とす」「笠の緒つけかえて、サンリに灸すうるより」「松島の月まず心にかかりて」の松尾芭蕉どんなら暢気でいいが、ハドリアヌスの旅は、毎日毎日が地方政庁の役人たちとの会見で費やされる。 それでも彼の旅はキチンキチンと成果を出し、ハドリアヌスを記念した道路や橋や町の名前が、地中海世界に無数に残されていく。ハドリアヌスの町→ハドリアーノポリスがその一つであり、長年この地域の首都として君臨することになる。 「H」の文字は地中海世界では発音されないから、やがてHの発音が無視されて、ハドリアーノはアドリアーノに変わる。そこからアドリアノーポリ、やがてアディルネへ、近代になってエディルネに変化する。「ハドリアヌスの海」だからアドリア海、それと同じことである。(アクサライ→オトガル間の地下鉄) さて、5月27日の今井君は、ホテル近くのカバタシュからトラムに乗り、カラキョイ→シルケジ→スルタンアフメットと延々と乗車して、ひたすらアクサライを目指した。アクサライまで50分。ここで地下鉄に乗り換えて、20分ほどでエディルネへのバスターミナルに着く。 ただし、アクサライはイスタンブール有数の治安の悪い街。トラムから地下鉄への乗り換えは、そういうオッカナイ街を10分ほど歩かなかればならない。エディルネにたどり着こうとすれば、ホテルからバスターミナルまでだけでも、1時間半もの道のりになる。(オトガル風景) たどり着いたのは「オトガル」。ガイドブックの著者が相当な変わり者なので、意地でも「オドガル」で通そうとするが、Auto「=バスの」+Gare「=駅(フランス語)」であって、何もそんなにがんばって「オトガル」を貫こうとしなくとも、擁するにバスターミナル続きをみる

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Tue 120802 見残し プリンシズ諸島 ス! ス!! ス!!! (イスタンブール紀行24)

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 5月28日、イスタンブール滞在も残り3日になってしまった。さんざん悩んだ末に、この日はプリンシズ諸島への船の旅に決めた。何をそんなに迷ったのかといえば、「エディルネをとるか、プリンシズを選ぶか」の選択である。 エディルネは、さすがに日帰り旅行には遠すぎる。バスターミナル(オトガル)にたどり着くまでに1時間半、エディルネ行きの高速バスに乗り換えて2時間。合計3時間半、→往復なら7時間を移動に費やすことになる。(プリンシズ諸島へ、お船は行くよ) スペインやイタリアやドイツのクマ蔵は、この程度の長時間移動を伴う小旅行を何度でも敢行した。ミュンヘンからザルツブルグやインスブルックへ。ベルリンからドレスデンやライプツィヒへ。マドリードからコルドバやセビージャへ。ボローニャからフェラーラやラヴェンナへ。「往復7時間」ぐらいの移動で、たじろぐクマ蔵ではないのである。 しかし、これらは全て特急電車を利用しての鉄道移動。さすがに、慣れないトルコでバス移動の7時間は精神的に厳しい。ポルトガルでは、リスボンからコインブラやエヴォラまでバスでの長時間移動に耐えたけれども、イスタンブールは何と言ってもバスターミナルが遠すぎる。(カバタシュからプリンシズ諸島へ、お船の時刻表) もちろん、エディルネ訪問をあきらめたのではない。今回の滞在では「見残し」として、次のトルコ旅行のお楽しみにとっておくことにする。「見残し」は今井君の旅の習慣であって、行きたい場所を100%訪問してしまわずに、1カ所か2カ所見残しておく。 そうしておけば、「あそこを見残しちゃったから、もう1度行くしかないな」という気になれるじゃないか。「トレビの泉に背中を向けてコインを投げ込めば、またローマに戻って来られる」みたいなオマジナイも悪くないが、コインなんか投げ込むより1カ所の見残しを作ったほうが、再訪の確実性ははるかに高くなる。(島の船着き場) この場合、見残しは大事なものであればあるほど効果が高い。ただし、横綱大関クラスを「見残し」にするのはさすがにマズいだろう。「バルセロナでサグラダファミリアを見残した」「パリでルーブルに行かなかった」「ミュンヘンでホフブロイハウスに入らなかった」こういうのは、単にマトモなヒトを驚かせたいだけなのかもしれない。根性がひねくれすぎていて、お話にならない。 狙い所は、関脇クラス。東京なら、下北沢/三軒茶屋/吉祥寺、または巣鴨。ロンドン周辺なら、ケンブリッジかオックスフォード、またはカンタベリー。ニューヨークなら、ハーレム135丁目あたりかね。(ますますトルコ人ぽくなってきた。下から自分撮り) ガイドブックでも目立たないスペースに1ページぐらいの軽い説明があって、「時間のある人にオススメ!!」みたいなコラムもくっついている。写真はフルカラーじゃなくて2色刷り。今回のエディルネは、まさに絶好の「見残し候補」であった。 トルコは広大であって、エーゲ海側に2週間、カッパドキアにも2週間、「満喫」というレベルになれば、最低限そのぐらいは必要だ。つまり、どうせもう2度はトルコに来ることになるんだから、エディルネは再訪時の絶好のスパイスということにすればいい。5月28日朝のクマ蔵がたどり着いた結論は、だいたい以上のようなことであった。(ますますトルコ人ぽくなってきた。横から自分撮り) 目的地がプリンシズ諸島ということなれば、話はたいへん楽である。直行のお船が、カバタシュ港から1日に6便も出ている。カバタシュ港なら、宿泊中のスイスホテルから坂道を下って、毎日通ったカバタシュの駅の真横である。 予定では、カバタシュ発11時50分のお船に乗って、ビュユカダに13時過ぎに到着。島を散策して、14時半ぐらいにランチ。16時か17時のお船で帰ってくれば、またまたカドキョイかシルケジで、晩飯もゆっくり満喫できる。(20年後は、こういうオジサマに続きをみる

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Wed 120803 ピンクの井村屋ズンボ、ついに断捨離を決意 相棒・網目オヤジの記憶

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 8月27日、長かった夏休みもまもなく終わろうとしているこの日、子供たちの多くはみんな今にも泣き出しそうである。だって、夏休みが終わるんだ。「夏休みが終わる」という7文字を見て、それでも泣き出しそうにならない強情な子供は、今井君とは余り仲良くなれないかもしれない。 着実に年齢を重ね、数百歳のすっかり老いたるクマになり、もう夏休みも冬休みも関係ないほど人生のベテランになってもまだ、夕暮れにツクツクボウシが盛んに鳴き出しただけで、今井君の目に涙が溢れ出す。 夏休みが終わって学校が始まる。あと5日すれば、毎日同じ時間に起きて、毎日毎日時間割に縛られて生きなきゃならない。そんなの、元気な子供にとっては人生最大の苦難でしかないじゃないか。いつまでも自由に遊んでいたいのに、いったい何の理由があってこの自由を放棄しなきゃイケナイんだ?(8月27日のクマ蔵君 1) 8月27日、今井君は1つの大きな断捨離を決意した。断捨離の対象は、ピンクのズンボである。写真で見る通り、ピンクとは名ばかり。井村屋の「あずきバー」そっくりの色である。 それでもまあ、ピンクと言い張るならやっぱりピンクだから、今井君は意地になって「ピンクのズンボ」、略して「ピンズ」と呼んできた。だって、これを懸命にデザインした人物は、きっとピンクだと思っていたに違いない。だれが好き好んで井村屋あずきバー色のズンボなんかデザインするもんか。(ピンズこと、井村屋あずきバー君。断捨離前に、もう1度はいてみた) 購入は、1997年5月か6月、世田谷区梅が丘の「紳士服のコナカ」である。1997年の今井君は、駿台予備学校から代々木ゼミナールに移籍したばかり。駿台講師の地味な服装に慣れていた今井君としては、突如として目の前に展開される代ゼミ講師のド派手ファッションに目を見張り、「こりゃボクチンもたくさん服を買わなきゃ♨」と固く決意した。 しかし諸君。何しろクマ蔵は生まれながらのクマであって、「服を買う」という行動が一番の苦手である。周囲の講師たちが1着で50万円も100万円もするスーツを平気で購入し、はいているクツだって高級ブランド品ばかりであることになんか、ちっとも気づかない。知っているのは、量販店とデパートのヒラバぐらいのものである。(ピンズには何故か「トラボルタ」の品名が。セラミクスでもあるらしい) 毎日のように新しいスーツに着替えてくる周囲の先生がたに圧倒され、5月のクマ蔵はもうアップアップの状態になっていた。「何でもいいから、とにかく数を揃えなきゃ」。梅が丘のコナカに駆け込んだ時、クマ蔵はほとんど血眼になっていた。 当時の自宅は下北沢だったから、新宿か渋谷のデパートでもよかった。しかし「職場で服に贅沢する」などという洗練された感覚は全く持ちあわせなかったので、デパートのヒラバでショッピングすることにさえ罪悪感があった。「量販店でいいや」「近くにコナカがあったはずだ」という、マコトに投げやりな購買行動に走ったわけである。(8月27日のクマ蔵君 2) いやはや、今考えても、あの年はたくさん買いましたな。「スーツ」という発想が全くなかったので、非常識にもジャケットとズンボを別々に買っていく。4月に春物を7セッツ。5月に夏物を7セッツ。合計14セッツ購入しても、何しろ量販店だ。大した金額にはならない。 「なぜ7セッツか?」というに、「同じ生徒の前に、毎週同じ服で出るのはマズいだろう」という発想が出発点。月曜から土曜まで週6日出講しているんだから、7セッツを着回しすれば自動的に1日ずつズレて、生徒の目から見れば「毎週チャンと服を変えている」ということになる。そういうコズルイ考え方をした。(8月27日のクマ蔵君 3) 代ゼミでもさすがに3年目ぐらいからは、今井君もようやく状況を理解。関脇か小結クラスの高級ブランドのスーツを着るようになった。1着100万円もする横綱大関クラスは、さすがに今井君には似合いそうにないから、着る服もやっぱり関脇あたりがいい。 今井君は、「連続2場所負け越せば陥落」という大関や、「成績不振だとすぐ引退の危機」「強いだけじゃダメ。品格が問われる」という横綱みたいなのは、どうも苦手。スーツだって、将来有望&上昇ベクトル一辺倒の関脇小結が大好きである。 しかも、いったん購入したら、たとえ関脇でも徹底的に大事に使う。10年も15年も大切に使った関脇は、投げやりに使い捨てられる横綱よりも、ずっと輝きを増すものである。 今井君が出張に持ち歩く黒いカバンは、すでに12年ものだ。「予想の5倍重いカバン」として、すでにこのブログでも続きをみる

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Thu 120804 「…していきまーす♡」の大洪水 ジンジン痺れる(イスタンブール紀行25)

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 さて、トルコのプリンシズ諸島であるが、人口1300万の大都会から約2時間の手軽な観光地だから、ちょうど江ノ島みたいな位置づけである。確かに島の雰囲気も江ノ島に似ている。ネコたちの天下であることも江ノ島と同じ。海辺にズラリとレストランが並んでいるが、観光客の数よりもネコのほうがずっと多いぐらいである。 そのうちの1軒を適当に選んで、「まずはランチ」ということにした。向こうのテーブルには若いトルコの男女7~8人が座って、明るいランチが進行中。「東京か横浜の大学生グループが、授業をサボって江ノ島に遊びにきた」。その類いの、すっかり緩んで穏やかな風情である。(トルコのお菓子は、甘さがジンジン脳に響く) クマ蔵はもちろん「まず、よく冷えたビア」。料理は、よく分からないイカの料理1皿と、バルック・シシュを2本。白身魚と野菜類を、シシケバブ風というか、BBQ風に焼いた単純な料理である。よく理解しないうちに全部飲み込んでしまったが、帰ってから調べるとチャンと「バルック・シシュ」という名前がついていた。 ホントなら、ここは料理を大いに褒めたたえなければならないところである。「新鮮な海の幸のエキスが野菜に染み込んで、思い出に残る最高のヒトシナでした」ぐらいの褒め言葉なら、ブログでもツイッターでも、いくらでも目にすることができる。 しかし考えてみれば、そういうテンプレートみたいな褒め言葉は返ってゾンザイである。テレビ東京系の旅番組じゃあるまいし、「さて、コヨイの宿へ向かいます」「山奥の湯宿のオカミの愛情が込められた絶品のヒトシナ」とか、褒め言葉がテンプレート化して、褒めても褒めても、逆にむしろ傲慢な響きが増してくる。(バルック・シシュ) このブログでは、「甘い!!」「やわらかーい♡」「溶けちゃったぁ♡」「何だ、こりゃぁ♨」「プリップリの食感ですぅ」などの表現のテンプレート化について、これまでに何度も問いかけてきた。 ワサビ食べて「甘い!!」、カレー食べても「甘い!!」。唐辛子もモヤシもキュウリもキャベツもみんな「甘い!!」。肉は何でも「やわらかーい」「とけちゃった」じゃ、シロートと大差ない。放送作家のプライドが泣くじゃないか。 こういう固定的反応しかできないタレントやレポーターは、そろそろこの世界から退場すべきである。ついでに、「コヨイの宿は…」「お待ちかねの…」「納得のヒトシナ」の類いの旅番組テンプレートも、そろそろ自己批判の時が来てるんじゃないか。このままだと、若い人々は一切テレビを見なくなりそうだ。(理解しにくいイカ料理) ついでに、レポート番組での「…といいます」という語尾の氾濫についても言及しておきたい。この言及も、このブログではすでに2度目である。諸君、朝と夕方のニュースショーを、一度確認してくれたまえ。2012年の段階で、レポーターが読み上げるセンテンスのうち、5つに3つは「…といいます」の伝聞形語尾になっている。 直接キチンと取材して、ライターさんが自信をもって書いた原稿なら、「です」「なのです」という言い切り形になるはず。言い切りを躊躇して「…といいます」と伝聞のニュアンスを残すのは、チャンと取材していない気後れを反映するものである。21世紀日本のメディアについて、今井君がいま一番憂慮するのは、実はこの点である。(島のエズメも辛かった) ついでに、料理番組から出発してこのところ急速に流行した語尾に「…していきまーす♡」がある。いまや、料理番組出演者の語尾は、「…していきまーす♡」が8割か9割を占める。 「焼きます」じゃなくて「焼いていきまーす♡」。「混ぜ合わせます」じゃなくて「混ぜていきまーす♡」。「蒸していきまーす♡」「刻んでいきまーす♡」「熱していきまーす♡」「アクを取っていきまーす♡」。諸君、夏休みの宿題に、「番組別・語尾の割合の研究」はどうかね? サブタイトルは「いきまーす/といいますの氾濫」でいい。 この流行が、床屋や美容院でも、看護師や医師にも、急速に拡大しつつある。一昨日の床屋さんでも「シャンプーしていきまーす♡」「5mmに揃えていきまーす♡」「ヒゲを剃っていきまーす♡」。病院でも「体温を測っていきまーす♡」「血圧を測定していきまーす♡」。「します」「剃ります」「揃続きをみる

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Wed 120805 永遠の夏休みについて またまたカドキョイヘ(イスタンブール紀行26)

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 現在ヨルダンで大活躍中のモト生徒・税所篤快君からメールが来た。彼とはつい1ヶ月半前に吉祥寺でバッタリ出会い、中野までの電車の中で近況を報告しあったばかりである。 メールによれば、「今週土曜日の9月1日朝6時20分から7時までのNHK『おはよう日本』でバングラデシュでの活動が4分間ほど放映されます」とのこと。諸君、ぜひビデオに録画して見てくれたまえ。 9月1日と言えば、このクマ蔵ブログの読者のうち高校生の諸君は「うぉ、夏休みが終わってしまった」「うぉ、今日から学校だ」「うぉ、もう夢も希望もない」と悲しみにうちひしがれているころである。なにしろ「夏休みが終わる」というのは、人生最大の悲劇だ。その気持ちは当たり前である。   (カドキョイで。「もうすぐ夏休みが終わる」な感じ) もし永遠に夏休みが続くのだったら、それほど素晴らしい人生はない。しかも「永遠の夏休み」を実現できるヒトは、ホントにごくごく少数だけれども、確かにこの世に実在するのである。なのに自分にはその奇跡は訪れず、夏休みが終わり、今日から平凡な現実が再開してしまう。諸君がムクれているのは、当然のことなのである。 特に高校生にとっての夏休みの終わりは、小学生や中学生にとって以上に、はるかに決定的なものである。ホントの意味で夏休みと呼べる夏休みは、高校3年か2年の夏休みで終わり。こんなに夏休みらしい夏休みは、もうやってくることはない。 高3生諸君、10月の中間テストが「人生最後の中間テスト」であるのと同じように、今回の夏休みはおそらく「人生最後の夏休み」だったである。残った2~3日の夏休みを、万感の思いをこめて過ごしたまえ。小学校入学以来、合計12回の夏休みを、1つ1つ心をこめて振り返りながら、「ホントの意味の夏休みは、これで終わりなんだ!!」と実感し、人生のあまりの短さを確認したまえ。    (イスタンブールで。夏の海は輝いていた) そんな心境の中では、とても「今井君のモト生徒」や「バングラディシュでの活躍」どころの気持ちにはなれないかもしれない。ましてや今井の「イスタンブール紀行」になんか、何の興味もわかなくなっているのも、マコトに仕方ない話である。 しかしだからこそ、9月1日6時台のNHK「おはよう日本」は、タイマー録画して、絶対に見逃してはならない。必ず、録画ね。ニュースショーで「40分のうち4分」などというのは、インデックスでもつけてもらわなきゃ、とても我慢して見続けていられるものではない。トイレに行きたくなって、我慢できなくなって、テレビの前に戻ってきたら、もう半分終わっている。 (カドキョイから、ウスキュダル「乙女の塔」方向を望む) バングラデシュやヨルダンやルワンダでの税所君の活躍を見ていると、「どうやらこの人は、『人生を夏休みにする』ことに成功しかけているかな?」と今井君は感じるのである。「人生を永遠の夏休みにする」というのは、「永遠に夢を追いかけて後ろは振り返らない」ということであって、「夢」をカブトムシやクワガタに置き換えれば、幼稚園児や小学生と同じことになる。 高校や予備校の先生がたが「あきらめなければ夢は必ず実現するんだ」と声を嗄らして諸君を叱咤激励するのは、「あきらめなければカブトムシやクワガタは必ず見つかるぞ」という激励の発展形なのである。諸君、セミだってアゲハだって見つかった。夢ぐらい見つかるし、夢が見つかれば夏休みは永遠に続くのだ。 (エミノミュで。トルコガールズたちは元気いっぱいだった) 税所君のメールには、なおも立派なオトナのお世辞が続いていて、「今井先生以上に会場が一体化した講演会は知りません。あの早稲田祭での講演会の白熱ぶりが、ムハマド・ユヌスの白熱教室以上だったのは、僕の鳥肌が証明しています」とのことである。 うーん、なかなかお世辞もうまい。大学生諸君、今井君をぜひ学園祭に呼んでくれたまえ。確かに3年前、早稲田祭での講演会は、出席者800名。90分の盛り上がりは、今井君のネクタイが汗でビショビショ、どれどころかネクタイを伝って汗が滴り落ちるほどに白熱した。       (カドキョイへのお船の中で) さて、イス続きをみる

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Thu 120806 靴磨きオジサンにしばしの別れ ヴァレンス水道橋(イスタンブール紀行27)

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 5月29日、イスタンブール滞在はlast but oneの1日になった。ここまでで観光地のうち横綱大関コース→関脇小結コースのほとんどを訪問し終えて、近郊のエディルネとブルサの街を「見残し」に決定。2週間の滞在中に「どうしても見ておかなければ」という場所は、ガイドブックの中では「ヴァレンス水道橋」しか残っていない。 もう1つ、last but oneの日の定番は「総復習」である。長い滞在中で最も印象に残った場所を2つか3つ選んで、もう1度満喫しに出かけるのである。こういう贅沢も、2週間同じ都市に滞在するタイプの旅だからこそ可能になる。    (今日はまず、ヴァレンス水道橋を訪問する 1) スイスホテルから長い坂道をカバタシュに向かって降りていく。旅の最初の3日間、毎日出現しては靴磨きのブラシを落としてみせたオジサンは、もう完全にあきらめてベンチで昼寝のフリをしている。 観光客の目の前で「うっかり」ブラシを落としてしまい、親切にもブラシを拾ってくれた観光客に「お礼だから」と言って靴を磨く。磨き終わった後に「80リラです」と料金を要求する。客が拒むと、周囲に隠れていた仲間たちが集まってきて、とにかくいくらかのオカネを払わせる。そういう仕組みになっているらしい。    (今日はまず、ヴァレンス水道橋を訪問する 2) 最初の3日間、さっそく今井君をターゲットにして、そういう筋書きのコントが始まった。もちろん、3日とも今井君は完全に無視。4日目からは、靴磨きオジサンのほうでも今井君を無視。「あのヤロー、いつまでトルコにいるんだ? 日本人なら日本人らしく、さっさと2~3日で日本に帰っちゃってくれないかな?」ということである。 しかし、そうは問屋が卸さない。マコトにシツコイ今井君は、2~3日はおろか、7日経っても10日経っても、一向にイスタンブールを立ち去る気配はない。1週間経過してからは、今井君が通過するとオジサンの周囲に運転手仲間が集まって、何だか盛んにオジサンをからかっている様子が見えた。 こうなると、やっぱりオジサンだって面白くない。オジサンは、ベンチの上で仰向けになり、お昼寝のフリをするようになった。しかし諸君、あんなにコントが下手なオジサンだ。当然「お昼寝のフリ」も下手クソだ。「ありゃ、絶対に眠っていない」「明らかに眠ったフリだ」とハッキリ分かってしまう。    (今日はまず、ヴァレンス水道橋を訪問する 3) 懐かしいこのオジサンとも、今日でしばらくお別れになる。次にイスタンブールに来るときまで、果たして健在だろうか。次回はスイスホテルに宿泊することはないだろうが(だって、街の中心部から離れすぎているのだ)、それでもワザワザここに来て、その健在を確かめてみるつもりだ。 もちろん彼にとって一番いいのは、そんな下手なコントで観光客をダマそうと躍起になるよりも、マトモに靴磨きの商売に励むことである。いちいちコントをやってみせ、悪い仲間の力を借りてゴマカシゴマカシ生きていくなんて、バカバカしいじゃないか。 しかしでござるね、今井君はどうしても急速なデジタル化はキライでござる。19世紀末から20世紀中頃のカホリのする、こういう何となくstupidな生き方の全てを否定したくはないのである。観光客さえしっかり気をつけていれば、大して迷惑はかからない。むしろ、この程度のコントがいまだに有効だということに問題があるのだ。    (今日も元気なトルコ・ガールズ 水道橋付近で) さて、靴磨きオジサンの続きをみる

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Fri 120807 イスタンブール総復習 「昔ながら」が消えていく(イスタンブール紀行28)

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 5月29日、ヴァレンス水道橋の遺跡から、スレイマン・ジャーミーに向かう。ちょうど水道橋を右に見て、水道橋と平行に東に進むことになる。このあたりの街は名門・イスタンンブール大学の学生街であって、試験でも近いのか、学生たちがコピー屋の前に列を作っている。 20世紀日本の学生が出席を怠けた授業のノートを仲間同士で融通しあったのは、今井君としてもマコトに懐かしい思い出である。「出席を怠けた授業」も何も、若き日の今井君は学部の授業にほとんど出席しなかったから、仲間たちから回ってくる授業ノートがもしもなかったら、期末試験も学年末試験も、全くどうにも対処の方法がなかった。 もっとも、「授業にあまり出なかった」などというのは当時の日本の学生には珍しいことではなくて、日常的に雀荘に入り浸ってマージャンの日々、試験はマジメな女子学生のノートを借りて乗り切る、そういう自堕落な生活のほうがずっとカッコよく見えた。 (イスタンブール総復習は、まずスレイマン・ジャーミー) 若き日のクマ蔵どんは、周囲の多くが夢中になっているマージャンというゲームに全く関心がなかった。素直に「マージャン」と呼ばずに「中国語の自主ゼミ」とか、まあ今考えればマコトに恥ずかしい呼び方をしたものだが、みんなで「雀荘にシケ込む」友人たちを見送った後、今井君は一人寂しく池袋や高田馬場の映画館に向かったものである。 Kuso-majimeに授業に出ている優等生諸君のことを皮肉に冷笑して、「たいへんだなあ、立身出世主義の諸君は。ボクが求めてるのは、そういう人生じゃないんだ」と、ウソブいて見せる。これもまた昭和フォークソング世代の特技。単に怠惰なだけの日々を、せめて自分だけでもホンのちょっとカッコよく感じていたい。そういう世代であった。      (まぢかから眺めたヴァレンス水道橋) つい1ヶ月半前、当時の仲間たちが4名、大阪・梅田のしゃぶしゃぶ店に集まった。あれから数十年経過しても、いまだに当時のクセは抜けないものである。話は、自分がどれほど仕事を怠けているかの自慢話から始まり、怠惰の自慢合戦はやがて数十年前の学生時代に飛び火した。 学生時代、自分がどれほど誰にも負けない怠け者だったか、それがどれほど決定的に人生をダメにしたか。そういう話になると、今でも力こぶが入り、ヒタイに青筋が立って、「オレはそこだけは誰にも負けない」という奇妙な意地の張り合いになるのは、ホントに滑稽きわまりない情景といっていい。  (スレイマン・ジャーミーからボスフォラス海峡を望む) では、21世紀の学生たちも、いまだにあんなことをやっているんだろうか。クマ蔵はよく知らないが、「教授が板書する」「学生が懸命に板書を写し取る」という、5000年にも6000年にも及ぶ人類の文明の伝統は、21世紀になってすっかり廃れてしまったような気がする。 周囲の様子をうかがってみると、どうもそういう現象が起こりつつあるらしい。板書はパワポにかわり、ノートはコピーの代わりにメールであっという間に行き渡り、素朴な学生同士の無邪気なコミュニケーションは消滅しつつあるようだ。    (ガラタ橋の下には、昔ながらの飲食店が並ぶ) ところが今イスタ続きをみる

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Sat 120808 トルコ最終日 グランドバザール トイレ事情(イスタンブール紀行29)

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 5月29日午後、スレイマン・ジャーミーを出て5月末の初夏の日盛りを10分ほど行くと、グランドバザールの真横に出た。周辺の店々も雑貨や絨毯をたくさん並べて、周囲もバザール内部も、その不思議な混沌ぶりに違いはない。バザール内部は日光が届かないぶん、不思議な気分がいっそう高まるだけである。        (グランドバザール) ガイドブックには「内部は迷路のように入り組んでいて、一度入ったら同じ出口から出るのはほとんど不可能である」と記されている。なるほど、入った瞬間のイメージは「一度入ったら出られない」という魔界のものである。 中央部に、はるか昔にできた旧バザール。その核の周囲を無数の店が年輪状に取り巻いて、数百年かけて一種の魔界が出来上がった。これこそ「超・昔ながら」であって、こんな魔窟のようなバザールが市街中心部に残っているなら、「昔ながらを残しながら」について、心配なんかしなくていいのかもしれない。      (グランドバザールの絨毯屋さん) しかし今井君が実際に歩き回ってみるに、このバザールでさえも奇妙なほど整理整頓が進んでいるのである。ある一角は延々と貴金属店が並ぶ。ある一角は、延々と絨毯屋さんが並ぶ。バルセロナやアテネやブダペストの市場みたいに鮮魚や精肉を扱っていないから、血なまぐさい匂いも一切ナシ。バザールを支配する雰囲気は至って高級である。 「一度入ったら同じ出口からはまず出られない」というのも、まあガイドブック特有の大袈裟な表現に過ぎない。ほとんど碁盤の目のようにキレイに区画されたバザールで、出口を見つけるのにそれほどの困難を感じない。目を血走らせた商人どうしの駆け引き、駆け引きが高じた罵声、ヒツジの声、ラクダの笑顔、そういうものとは一切無縁なのだ。     (グランドバザール 「傾いたキオスク」) 次に来るまでに、トルコが一気にデジタル化してしまいそうで、クマ蔵どんなんかはちょっとコワいのである。鉄道でも、すでにSuica型カードやトークンが100%普及。窓口に長蛇の列を作ってキップを買う、あの懐かしい「昔ながら」は、2012年の段階ですでにすっかり姿を消してしまっていた。       (イスタンブール 夕陽の情景) イスタンブール紀行の最後に、トイレ事情についてカンタンに話しておきたい。いやはや、人生で最も大切な小部屋のうちの一つは、イスタンブールではほぼ完全に2極分化していると言っていい。 一方では、まさに「昔ながらを残しながら」そのもののトルコ式便器クン。写真のギザギザのところに足を載せたら、不要物を地獄へ向かって排気する穴がうしろ。写真のコチラ側が前。地獄への穴にうまく命中するようにコトを運ぶ。        (トルコ式トイレの基本) 全てが終了したら、目の前の水道の蛇口の前には本来バケツがあって、バケツに貯まった水で必要な洗浄を行う。この形式のトイレでは、一般に紙とかトイレットペーパーの類いは置かれていないから、お水でしっかり洗った後は、とりあえず乾燥は自然の偉大な力に任せるしかない。        (お船のトイレ 1) さすがにこの種のトルコ式トイレでは、現代的どころか近代的とも言えないから、デジタル化が進むイスタンブールでは当然のごとく廃れていくものと予想される。しかしマコトに驚くべきことに、いまだに生産は盛んで、繁華街の陶器屋さんの店先にも堂々とチンレツされていたりする。 いくら今井君が「昔ながら」が大好きなアナログ系中年男だとは言っても、この形式のトイレに入る度に、「おやおや、こりゃ困った」と天を仰いだものである。ボスフォラス海峡を行き来するお船続きをみる

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Sun 120809 万年筆に関わる思い出 日記魔 話はミュンヘンへ(ミュンヘン滞在記1)

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 今井君がまだ小学生か中学生の頃の話だから、日本はまだ鎖国のさなか、ペリーどんがやってきて「たった4ハイで夜も寝られず」になるまで、まだ相当の間がある時代である。家にあった雑誌をめくっていたら(おそらく「アサヒグラフ」、しかもおそらく「ミュンヘン・オリンピック特集」)、万年筆の広告が目に留まった。 まだ今井君はコドモだから、自分の万年筆なんか持っていない。旺文社の雑誌「中1時代」か学研「中1コース」を年間予約すれば、付録で「プラチナ万年筆を1本もらえます」という特典がついてくる時代だったが、何しろ今井君の両親は控えめなヒトたちなので「読みもしない学習雑誌なんかを1年分も予約するなんて、贅沢すぎる」「付録の万年筆がほしくて、そんな贅沢をするなんて、ますます贅沢。というより、本末転倒だ」と叱られ、「ボク専用の万年筆ゲット」の夢はあえなく散っていった。      (吠えるクマ君。ミュンヘンの博物館にて) しかも、厳しく叱られたのがたいへん心外である。だって、最初からボクチンは「年間予約したい」などとは一言も言わなかったのだ。第一、当時いくら流行していたといっても「中1時代」だの「中1コース」だの、雑誌の名前があまりに恥ずかしいじゃないか。 コドモ時代にして、すでに今井君は生意気盛り。姉だったか先生だったか、とにかく幼い今井君にイヤな情報を吹き込む人たちが周囲にいて、「旺文社か。あれは駄目なんだ。秋田高校の先輩で、旺文社模試で全国1番になったのに、東大に落ちたヒトがいるぞ」とか、そういう話がすっかり頭の中を支配していたのである。 だからコドモ時代の今井君には、「旺文社の雑誌を年間予約」≒「東大不合格」という、マコトにおかしな公式が定着してしまっていた。ついでにコグマ君には「東大が全て」と考える、これまた困った習慣があった。       (クマ君。何だか、短足だ) 以上の事情から、「旺文社の雑誌を年間予約して、付録の万年筆で満足して、東大に合格できない道を一直線に歩み始めるなんて、愚の骨頂だ」と、ホントにコドモらしくない結論を導きだしていた。だから、ホントにホントにウソではなくて、そんな雑誌は絶対にイヤだったのである。 しかし、家族の食卓では世間話が盛り上がる。「あそこんちでも、あれを年間予約したそうだ」「どこの子も、中学校に入れば年間予約するもんだそうだ」「オマエも予約したいのか? 万年筆もらえるそうだぞ」「そんな付録につられて、バカな人たちだ」「まさかオマエもそんな愚かなヤツなのか?」「贅沢はダメだ。愚の骨頂だ」当時の今井家では「愚の骨頂」が流行語になっていたのである。 慎重に態度を保留したまま、ダラしなくニヤニヤ&ニタニタしていたのが悪かった。父親としては、「ここが息子をたしなめるチャンスだ」「ここで叱責しないのは愚の骨頂だ」と判断したのだろう。「そんな贅沢は愚の骨頂だ!!」「みんなのマネをするのは愚の骨頂だ!!」と、息子が何も言わずにいるうちに勝手に激怒して、「ボクの万年筆」は夢の彼方へ消えた。       (クマ君。スゴく、短足だ) そういう日々のことである。「アサヒグラフ」をめくっていて、モンブランだったかパーカーだったか、お小遣いをどんなに貯めても絶対に手に入らない高級万年筆の写真が大きく出ている広告に目が止まったのは、致し方のないことである。 広告コピーには、こうあった。「この万年筆で記録していくに相応しい日々を送ることを、君に約束したい」うにゃ、何だこりゃ? 私の記憶が確かならば、広告のストーリーは以下の通りである。 長く付きあった友人から、1本の万年筆を贈られる。大学時代の友人なのだが、何かの事情があって、今後長いあいだ顔を合わせない運命にある。贈られた万年筆で、彼は早速その夜のうちに友人に礼状をしたためる。 その手紙の締めくくりの文句が、この「君に約束したい」なのである。うにゃにゃ、な、な、何とカッコいい。コグマ君はこの一言にすっかり参ってしまい、意地でも万年筆を手に入れることを心に誓って、アサヒグラフを固く握りしめたものだった。         (かわいいクマ君) そして実際、わずかなお小遣いを貯め込んだ貯金をはたいて、街の文房具屋で1500円のプラチナ万年筆を手に入れた。忘れもしないが、秋続きをみる

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Mon 120810 いよいよブログのリニューアル ミュンヘンに到着(ミュンヘン滞在記2)

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 こういうふうで(スミマセン、昨日の続きです)、12歳10ヶ月で中学校に入学して以来、25歳で最初のワープロを購入するまで、延々と万年筆で詳細な日々の記録を記し続けた。頭の中に常に鳴り響いていたのは、昨日書いた広告コピー、「この万年筆で記録していくに相応しい日々を送ることを、君に約束したい」だったというのだから、自分ながらマコトに恐れ入る。 記録があまりに詳細にわたると、記録することが自己目的化して、毎日1時間も2時間もかかる。PCなんか影も形もない時代だし、何しろ今井君は文字をキチンとキレイに書くことに偏執的なこだわりを持つから、「いい加減に書きなぐる」などというハナレワザはどうしても出来ない。 中学生や高校生にとっての1時間2時間がどれほど長い時間かを考えれば、毎日2時間近く机にかじりついて自分の日常を記録し続けた今井君の少年時代が、どれほど異色なものかが分かるはずだ。あげくの果てに「今日は、昨日の記録を書くことに3時間費やした」という記録さえ登場する。 大好きなのは、黒インク。ブルーでもブルーブラックでもいいが、記録をキチンと紙面に定着させるには、軽いブルーではどうしても心もとない。一切のスキを感じさせないブラックホールのように重い漆黒のインク以外では、書いていてどうも腰が落ち着かないのである。     (夕暮れのミュンヘン マリエンプラッツ1) そんな状態で25歳に至り、世の中はワープロの時代になった。それまでは梅棹忠夫の「知的生産の技術」や「京大型カード」全盛だったのが、いきなり「ワープロ書斎術」の世の中に変わる。かくいう今井君も、万年筆からワープロにすべてを切り替えた。 万年筆はプラチナ→パイロット→モンブラン→ペリカンと、それぞれ3年ぐらいずつ使い込んで、どれもこれも愛着は限りなく深かったけれども、ディスプレイに1行しか文章の出ない旧式ワープロでさえ、利便性という面では万年筆を遥かに凌駕していた。 やがて「3行革命」というのがあって、ディスプレーに文章3行分が表示されるようになってからは、まさに一気呵成の感がある。28歳で友人のPC「キューハチ」をいじりはじめ、万年筆は完全に抽き出しの奥の住人と化した。 問題なのは、利便性が高まれば高まるほど、記録がますます長大になっていくことである。年齢的に見ても「記録していくに相応しい日々を送ることを、君に約束」なんかしちゃったら最後、メッタヤタラに記録すべきことが膨張する世代に突入。そのまま現在に至る。     (夕暮れのミュンヘン マリエンプラッツ2) 2008年6月5日、ブログへの参入を決意。参入初日の記事では「毎日更新、A4版1枚、写真1枚。それを10年継続」と約束している。今思えば、「あの頃は軽率だったな」「記録魔で日記魔のボクチンが、A4たった1枚の記録で満足できるわけないじゃないか」であって、どんなに自分を押さえつけても、現実の記録は「A4版3~4枚、写真14枚」に膨張する。 ブログ開始以来、「抑制しよう」「せめて今の1/2、それが無理でも2/3にしなければ」と、決意すること、すでに10回以上になる。そのたびに、記事の中でも「短くします」「限度を心得るようにします」と読者に宣言。しかしどんな宣言も、真夏の朝露の如し。宣言の4~5日後には、宣言自体がなかったことのように、むしろ宣言以前より長大な日々の記録が始まってしまう。    (ミュンヘン ハクセンバーガーの黒ビール) こうして再び、「今日は丸1日、昨日の記録を書いていた」という本末転倒がスタート。旅行先にも必ずMac君を持ち込んで、早朝の1時間半は「昨日の記録」に費やされる。イスタンブールにいるのに、早朝2時間はマドリードやダブリンの記録を書くことに費やす。 もちろん、それをマイナス評価するわけではない。旅先での早朝2時間などというものは、どうせベッドの中でダラダラするか、朝食を食べ過ぎてウンウン唸っているか、テレビのニュースショーを見ながらタレントの悪口を言って費やされるだけである。        (ミュンヘン市庁舎) 人間の生活でおそらく一番ダラしなく浪費される時間帯を、過去の詳細な記録と反省に使えるなら、こんなに有意義な話はないのだ。ただ続きをみる

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Tue 120811 大雪の記憶 シュパーゲル グロッケンシュピール(ミュンヘン滞在記3)

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 5月19日、ミュンヘン滞在の2日目は快晴に恵まれた。南ドイツの初夏は暖かい。電車で2時間南下すればドイツアルプスのど真ん中になるから、そのイメージからして「さぞかし、寒かんべえな」という先入観があるが、少なくとも春から夏にかけては穏やかで暖かい土地である。 6年前にミュンヘンを訪ねたのは、2月中旬。まさに厳寒の季節であって、ミュンヘンでは大雪が降った。到着した日はまだ何ともなかったのだが、翌日の昼頃に雪が舞い始めると、すぐにたいへんな大雪なった。(ミュンヘン市庁舎) クマ蔵は雪国の出身であるから、空気の匂いや風の硬軟で大雪を嗅ぎ分けることができる。北国の風には硬さと軟らかさがあって、「おや、北西からの風の硬度が突然上がったな」と感じるときには、大雪がすぐ近くまで迫っている。 「空気の匂い」についても同様である。クマさんはお鼻をヒクヒクさせながら、大雪の匂いを嗅ぎ分ける。クマさんが「これは大雪が来るぞ」と発言したら、まもなく十中八九の確率で最初の雪がちらつき始める。 生まれ育った秋田県秋田市は、「大雪」と言ってもせいぜい1メートル積もるか積もらないか。決して豪雪地帯ではない。しかし豪雪に慣れきっている人々のほうが、雪の襲来には鈍感になっちゃうんじゃないか。秋田市みたいな中途半端な雪国の生まれだからこそ雪に敏感、そういうことは世の中にたくさんあるんじゃないかと思う。(市庁舎前広場の賑わい) 6年前のあの日、ミュンヘンでいきなり降り出した雪は、1つ1つの結晶がハッキリ見分けられるほど美しいものだった。虫メガネなんか、ちっとも必要ないのである。いろんな六角形が、真っ白い結晶のままいつまでもコートの上に残って、それがあっという間にミュンヘンの街を白く覆った。 今井君はあわてて近くの靴屋に駆け込んだ。大雪用の靴はもってきていなかったので、どんなボロい靴でもいいから、ホンの10日ぐらい雪に耐えられる靴を買おうと思ったのだ。 ミュンヘン5泊のあとはウィーンで5泊を予定。その後はアルプスを超えてヴェネツィア→フィレンツェ→ローマと回る予定だったから、雪の心配はなし。ミュンヘンとウィーン、10日間の雪さえ乗り切ればいいのである。 入った店で、旧ユーゴスラビア圏の国から輸入された安い靴を買った。外に出ると、もう路面が見えないほど雪は深く積もっている。雪国の人なら誰でも知っているはずの静寂が街を包んだ。雪が一定以上積もると、それまでの喧噪が一気に静まり返るのである。(ツインのタマネギ塔が印象的なフラウエン教会。残念ながらタマネギ1個が修復中だった) 今回の旅行で最初に訪れたかったのは「6年前のあの日、靴を買った店」である。何だか、異様に懐かしい。8年在籍した代ゼミをヤメた直後のヨーロッパ周遊40日の旅は、やはり今井君にとっては特別な旅だったのであって、中でも大雪に見舞われたミュンヘンの5日間は特に印象が深いようである。 店は、ミュンヘン旧市街にチャンと残っていた。通称「黄色い教会」=テアティーナー教会のそばの通りである。6年前には「暗い裏通り小さな店」と思っていたのだが、今回立ち寄ってみると、何だかたいへんオシャレな通りの、その中でも一番オシャレな店なのであった。(黄色い教会=テアティーナー教会) ドイツの5月は、アスパラガスの季節である。そこいら中に屋台が出て、アスパラガスを山積みにして売っている。アスパラガスはドイツ語でシュパーゲル。SPAGELと大書した看板が上がり、タケノコ並みに太いアスパラガスが屋台の奥まで積み上げられる。 同じ屋台で、イチゴとサクランボも売続きをみる

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